昭和四十五年四月十一日
X御理解第四十九節 「信心は相縁機縁」
お互いが信心の御縁を頂き、合楽にこうして御縁を頂き、信心の稽古をさせて頂いておる、とゆう事だけでもやはり、ひとつの不思議な縁とゆうものが生じて、その縁が、このように段々有り難い縁に育っていっておる訳ですねぇ。どこ迄も、その縁が広い又は深い、同時に又とない有り難い、とゆう縁におかげを頂いてゆかねばなりません。
それはやはり、放っておいただけではいけません、やっぱり、それを有り難いより深い、より広い、又とない有り難いのもに育っていくとゆう事、それが私は大事だと思います。
例えば、歌を作る人達ですねぇ、俳句の勉強でもしておる人達、いつも心の中にその事を考え続けております。自動車に乗らして頂いておっても、道を歩かせて頂いておっても、そこに、気心とゆうのが有りますと、そこから思いもかけないよい句が生まれてくる。
例えば、山道を歩いておる、姿は見えないけれども、どこかで誰かが開墾か何かをしておるらしい。鍬の先に小石が当たってチーンとゆう音がしたと。その音が響いてきた。それが丁度、時候が秋の頃だったらしい。しかも深い山の秋の静けさをね。歌いあげておる句を、私は素晴らしいなあ。その石と、鍬の接触と云うですかねぇ。そのチーンとゆう音を聞きとめて、そこに気こりがおる事やら、深まっていく秋の景色やら又、山の静けさやらね。その短い句の中に表されておる。そうゆう句を、私は見た事が有るのです。
がそのように、たったそれだけの事の中から、そのように深い句が出来てくるようにです。私共がやはり常にたえず、心にかけ通しにかけておかねばならない。句を作る人がいつも、その道を歩いておっても、そんなら、その路傍の石を見ても、心を止めておるとゆう事。そこから、思いもかけない、生き生きとしたよい句が生まれてくるようにね。私共が信心は、只なる程、相縁機縁だ。まあ云うなら福岡当たりから、わざわざ合楽迄もこうやってお参りをして来ると、わざわざ遠方から、お参りをして来ると、そのやはり縁とゆうものが、不思議な縁に云うなら、あやつられるようにして、御縁を頂いて、そこに縁が出来た。
しかも、それが有り難いものであるとゆう事が分かってきたら、それをいよいよより有り難いものに、もっと、もっと深い、広いものにです。私はしていくところに、お互いの精進、心がけとゆうものいると思うのですよ。
Z『私は今日、御神前に出らして頂いたら今のその事を頂いて、丁度そうゆう、こうゆう情景を見られた時に、その句が出来たんだろうかとゆうような情景と、それからお祝儀の時に使います、つの樽とゆうのが有りますよねぇ。あのつの樽のね、つのをとった樽を頂くのですよ。』
どうゆう事だろうかと思いましたけれども、つのとゆう事は、やはりつのを出すと、こう申しますからね。まあ腹が立つといったような事じゃないだろうかと、こう思いました。
ですから、もしどうでしょうか。最近んのように腹を立てんように、立てんようにとか、いわゆる和賀心、和賀心とゆう事は云われておりますが、和らぎ、賀ぶ心とゆう事は腹を立てん、立てんと、腹を立てちゃならんと、ゆう事ではないと思うですねぇ。
もし、その腹の立たたんとゆう事ばっかりであったらですね。やっぱ駄目です。腹が立たんとゆう事が有り難いとゆうものでなからにゃいかんのですよ。昨日、善導寺の村山さんが言うておりますように、やっぱ性格的に勿論一生懸命精進してるようです。ここに御縁を頂いて和賀心とゆうものを聞かずそてもろうた。何とゆう素晴らしい言葉だろうか。初めて参った時に和賀心とゆう事を聞いて、金光さまの御信心は、素晴らしいと思うた。まだ信心するようになって、半年位でしょうか。熱心に参って来ます。
そして昨日、月次祭にお参りして来てから、先生、私はあれ以来、おかげで一回も腹を立てませんと云うのですよ。まあ、努力をしとる、精進をしとる訳ですよねぇ。こんな事で腹かいちゃならんと、精進してる訳です。けれども、それが必ずしも、和賀心ぢゃないとゆう事ですよ。
腹を立てておっても、和賀心は有るのです。ですから、その辺のところをです。お互いが、只腹を立てん、と、まあ性格的に腹を立てん人が有りますよねぇ、そのかわり、ちょっとした事で、プリプリ腹をかく人も有りましょう。性格的にだから、腹を立てるとか、立てないと、いったような事じゃない。
こうような事に腹を立てんで済むとゆう事がね。有り難いなあとゆう事に、喜びの心がですねぇ、その喜びの心が伴わなければ、おかげにはならん。
例えば、御祝儀の時に使いますつの樽につのがなかった時の事を、ちょっと思うてごらんなさい。実にこっけいな事ですよねぇ。あのつの樽につのがなかったら芽出度いとゆう気すら起こりません。おかしな事になります。のっぺらぼうのごとなります。あの角を取ったら、やはり角が有った方が有り難いのだ。角が有った方が芽出度いのだ、とゆう事になる訳です。角があった方がいわゆる中に入る酒がね、有り難き、勿体なき、おそれおおきのおみきさん‥‥‥。 だからね、その腹を立てるとゆう事がおかげにつながらないような、私は腹の立て方ではいけませんけれども、腹を立てるとゆう事がです。おかげにつながるような腹の立て方、いわゆる腹の立つような事柄と出会うとゆう事がですねぇ。そこに腹の立つような事との、縁が生じる訳です。
ですから、腹が立って仕様がない、もうむしゃくしゃすると、ゆうだけに終わったんではつまりません。腹立てば吾心の鏡のくもること、とおっしゃるから、くもっただけではつまらんのです。けれども、その腹の立った事がですね。そんなら、心の鏡が曇った事が、それをすぐ研ぐ事によってです。今迄、気がつかなかったところ迄、きれいに研き上げてゆけれるとゆうところに、私は腹を立てる。功徳があると思うのです。
腹も立てきらん、とゆう事ではです。だから、つまらんとゆう事にまでなるのじゃないでしょうかねぇ。その腹立ちがね、有り難いものになっていかなければ、有り難いものにつながっていかなければ、いわゆる和賀の賀ですねぇ。賀につながっていかなければならない。それが私は賀びの心をいよいよ深いものにしてゆくとゆう事になるのでしょうか。
例えば今朝私は特にのどが乾きよります。乾きよりますから、こうしてお水を戴きます。もうそのひと口、ひと口が本当に甘露ですねぇ。乾くからこそ只普通の水が甘露にも感じられるのです。もう私には、只の水じゃないです。もう、それこそひと口、ひと口に甘露と云わねばおられない程に、おいしいものになるのです。
腹が立つと、その腹の立て方がね、腹が立つおかげでね。今まで感じえなかった信心の深さとゆうようなものに深められていく。だから腹を立てるとゆう事が、おかげにつながっていく。
%V微妙なもんですよ‥‥‥。
信心は相縁機縁、なる程、信心は相縁機縁であるだから、そこに相縁機縁で、縁が生じたと、袖すり合わせも多少の縁、そうゆうような縁が生じるとゆう事もです。しかも、信心の縁が生じるとゆう事は、そこに人が助かるとゆう事ですから、ですから、私共の心にかけ通しにかけさせて頂いておる、有り難いものがです。信心の稽古をさせて頂いておる者がです。私が助かっていておるとゆう事がです、これが又皆んなも助かってほしい、皆んなにも、この有り難いものをわけ与えてやりたいと思う心がです。いつも有る。だから、袖すり合うも多少の縁とゆうような、かすかな縁からでも有り難いものが伝わっていくとゆう事になるのじゃないでしょうか。
歌やら句やら作る人達が、もうそれこそ思いがけないところから、歌う心が湧いてきましたり、それこそ素晴らしい、さっきの秋の深い山で、秋の深まっていく、秋の味わいとか、静けさとかいったようなものを少しの言葉で表現出来るような句が例えば生まれたとするならですね。やはりその人に句心とゆうものが有るから、これが出来るのです。もし、句心が無かったらですねぇ、その昔にすら気がつかないでしょう。誰かおる事はおるばいの誰か開墾しよるばあいのとゆう位の事でしょう。けれども、その句心があるから、それがすぐ句にまとめ上げられる訳です。
ですから、私共信心させて頂く者がです、いつも、信心とでも申しましょうか、自分が助かっていきよる。本当に人が助かる事が出来さえすればといったような心がいつも有りますとです。その縁が生じた時にです。その縁がより有り難い、深い、広い縁につながっていく事が出来るとゆう事ですよ。
又は、私共がですね、日々生活させて頂く上にはね、腹の立つ問題がいくらも有るんです。最近は和賀心、和賀心と云われるから、腹立てちゃならん、腹立てちゃならんと、云うてそれを只グウ、グウこらえるとゆうだけではなくてです。腹立てんで済んだとゆうだけではなくて、腹を立てんでもです。それが必ずしも和賀心ではない、腹を立てた事がかえって和賀心につながっておる場合があるのだと、勿論腹の立ったその事がです。次の賀の心に、賀びの心につながっていくような腹の立て方でなければならないとゆう事を。私は今朝から頂いたつの樽の角のない、それじゃどうも、のっぺあらぽんのごたる事。只、腹を立てません。あの人はどげなこつ云うたっちゃ腹を立てらっしゃれん、とゆうのは、なんとはなしにのっぺらぽんのような感じですねぇ、腹を立ててもその腹の立て方がです。賀びにつながっていくとゆうような腹の立ったおかげで、それを腹立てば心の鏡が曇る。その曇ったものを、すぐにぬぐい清のようとするところからです。今迄気がつかなかったところ迄も、清めておるとゆうような、私は腹の立て方でなければいけない。
のどが乾かしてもらうからこそ、のどが只の水も、甘露に感じさしてもらえるように、腹が立つそのおかげがです。今迄感じられなかった程しの喜びを感じられるような生き方、私はそうゆう生き方ですね。本当云うたら人間らしい生き方ではなかろうか、と思う。人間らしい生き方、腹をたてきらん、とゆう事では今日の場合つまらない事が分かります。
ただし、その腹立てるのがです。心が曇った上にも曇っていく、といったような立て方じゃいかん。もういつもかつもプリプリ腹かいてござるとゆうののでも、いけん。腹かかにゃならんけれども。その腹立ちがです。今迄届かなかった深い部分にまで、それがしみ通っていく程しにです。清められていくようなおかげを頂く時に、初めてその腹立ちが生きてくるじゃないだろうかと思います。
信心は相縁機縁とゆう事を今日頂く訳です。けれども、私共がいつも心にかけ通しにかけさせて頂いておると、それこそささいな、袖すり合うも多少の縁、そこから深い味わいのある歌なら歌が生まれてくるようにです。信心の深い味わいの縁とゆうものが、そこから生まれてくるそうゆう相縁機縁と、只云うておるだけではなくて、その相縁機縁をです。それから育てていこうとする心がそれがたえず、いつも自分の心の中になからなければならないとゆう事。
昨夜のお月次祭の後のお説教に十日のちにひかえております大祭を迎えさせて頂くに当たって本気でひとつ、お詫びをさせて頂かねばならぬ事に気付いて、今日からの十日間をお詫びのしるしに修行させてもらう。お詫びのしるしに、こうもさせてもらおう、ああもさせてもらおうお詫びのしるしに改まりもしよう、といったような私はお詫びをさせて頂いて、御大祭を本当に御礼のお祭りとゆうようにさせて頂きたいとゆう事を、昨日申させて頂きましたが、どうぞひとつお互いよく反省させて頂いて、本当に十日前気付かせて頂いてよかったと、私がゆうべも申しましたが、そうゆうお詫びをしなければならない事に気付かせて頂いて、そこからね詫びれば許してやりたいのが親心とおっしゃる。
許される喜びといったようなものを感じさせて頂く、お詫びをさせて頂かねばならないような事柄との、ひとつの出会いと云うか、縁と云うか、その縁をです。生かしていくとゆう事は、お詫びのしるしにとゆう信心が必要である。そこに、お詫びをしなければならないような事があったおかげでです。いわゆる許された有り難いとゆうものが生まれてくるんだと、ゆう風に申しましたが、やはりそれでも同じ意味の事が云るのじゃないでしょうか。
ゆうべでももし私が気が付かなかったら、お詫びをしなければならん事がそのまま、云わば大祭に入っていったら、本当に相済まん、御大祭になっておっただろう。そこに気付かせて頂いた、だからそのお詫びをさせて頂くとゆうその事柄をです。詫びれば、許してやりたいとおっしゃる、その許された喜びを頂く為に私共はまず詫びねばならない事を知らなければいけない。そこには、詫びねばならない事柄との縁とゆうものがです。生きてくるのではないでしょうか。どうぞ。